ご案内お知らせ短編連載「マスカレイド」書評動画
自作小説(短編中心)と書評(というか感想文)。 ジャンルはミステリィが主体です。
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2007.05.11 Fri
推理小説家火渡雅が体験した不可解な事件。奇妙な偶然の連鎖によって組み上げられたその歪な事件は、次第に彼の世界を壊していく。

メタでアンチ。
夢野久作の「ドグラ・マグラ」を強く意識して書かれた小説です。

――というだけで、終わってしまうのだけど……。
寂しいから、もう少し。

メタでアンチで、「ドグラ・マグラ」なんですけど、この作品の特異なところは、主題に奇妙な偶然、即ち《奇偶》を選んだことです。
因果律が無効化されるほどの夥しい数の偶然。その中でどうやって世界を認識し、自分の存在を確定するか。
――そこそこ面白いテーマだと思うんですけど、アプローチの手法がいかんせん冗長です。
心理学だの量子物理学だの哲学宗教なんでもありで、ひたすら衒学趣味に走って語る語る。作中の某人物が「まるで鵺のようなグロテスク」と評するほど。
やっぱりその手法も「ドグラ・マグラ」を真似てということなんでしょうが、ちょっとしんどすぎる。

密室に関してラストで提出される推理はインパクト大。
だけれど結局、「ドグラ・マグラ」の劣化コピー、という気がします。
分厚い割に、内容薄いし。満足できず。
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2007.05.15 Tue
満開の桜の下、二日酔いの女流作家が出逢ったのは謎の美青年と見知らぬ肩掛け鞄。全てが嫌になってしまった彼女は、自分でも思いもよらぬ行動に出る。「君ってさ、タバコ吸う?」

一人で生きるということ。
男でも女でも、それはとても難しいことだと思います。
社会的に浮くし、老後が心配だし、やっぱり子供は欲しい様な気はするし……、それに何より、やっぱり寂しい。
孤独な日常にうんざりしたら、一日ぐらい羽目を外したっていいじゃない。
――そんな話。

最近の西澤らしい、軽いミステリィタッチの小説です。
この作品の中核を成している要素を抽出してみると、人生の挫折、同性愛傾向、美しい男、それにアルコールか。
うん、どれも西澤の十八番だ。
いつも通り深いところまで書けているけれど、正直ちょっと飽きました。
西澤にはもっとスパイシィな本格を書いて欲しいのになあ。
これはこれで、悪くはないと思うんだけど。肌に合わん。

以下ネタバレ。
2007.05.15 Tue
原題は「Till Death Do Us Part」。

「君の婚約者は過去三人の男を毒殺した妖婦だ」劇作家ディックに恐るべき話しを告げた男は翌朝、青酸を注射され密室の中で絶命しているのを発見された。状況は彼が話した過去の事件と全く同じだった。平和な村に渦巻く中傷と黒い噂。複雑怪奇な事件に挑むのは名探偵ギデオン・フェル博士

古典です。
私の読書歴は国産ミステリィ、しかもごく最近の物に偏っているので、少しは古典を勉強しないといけないかな、と思い立ってみました。
ジョン・ディクスン・カーといえば不可能犯罪、特に密室に情熱を注いだ作家として有名です。以前に一冊だけ短編集を読んだことがあるんですけど、タイトルすら思い出せないくらい昔の話。

解説を読む限り、本作はカーの代表作というわけではなく、寧ろ異色作になるらしい。
怪奇趣味、不可能性の強調、複雑なトリックなんかは抑え気味で、ミステリィ・マニアには物足りないでしょう。けれど、逆に小説としてはバランスが取れている。

生き生きと描かれた登場人物、緻密に張られた伏線、何よりもスリリングな展開が好印象。久しぶりにわくわくしながらミステリィを読んだ、という気がしました。
ただ、フェル博士の活躍はあまり評価できなかった。

個人的には密室トリックに関して、私の推理が珍しくそこそこ当たっていたので嬉しかった……。フーダニットは壊滅だったけれど。

こっそりシンシアに萌え。いいじゃん片思い。
2007.05.24 Thu
J・D・カー生誕百周年記念アンソロジィ。
八人の推理作家(一部例外含む)による、カーをテーマにした短編集。
いつもと違う作家の作品を読もうと思って、スクリーニングのつもりで。

芦辺拓「ジョン・ディクスン・カー氏、ギデオン・フェル博士に会う」
カーを主人公にしたメタ・ミステリィ。
凝りに凝った印象だけれど、現実の事件の推理はどうもアンフェア。
でも虚構の事件の解決は面白かった。作中のラジオドラマ、最終回でリスナは仰天しただろうなあ。

桜庭一樹「少年バンコラン! 夜歩く犬」
名探偵アンリ・バンコランの少年時代、という設定で書かれたジュヴナイル。
――浮いている。
マニアックな本格推理の書き手ばかりが集まったこのアンソロジィの中で、桜庭だけが浮いている……! 作品も、自作解題も、何か一人だけ初々しい!
まあ、良いんですけど……。ライト出身は肩身が狭いよね。
バンコランシリーズは未読(というか、まともに読んだのは前回のフェル博士シリーズだけ)なので、バンコランが原作に沿って書かれていたのかどうかはわかりません。でも、バンコラン始め登場人物は皆生き生きとしていて好印象。
芦辺と桜庭以外は皆カーのアンソロジィらしくハウダニット(特に密室)を中心に置きましたが、桜庭はホワイダニットで勝負。結果は、大御所たちに負けず劣らず、綺麗な謎解きだったと思います。

田中啓文「忠臣蔵の密室」
大石内蔵助ら四十七士が踏み込んだとき、吉良上野介は既に何者かに、しかも密室で殺されていた! という歴史フィクション。
正直ミステリィとしてはどうでもいいレヴェル。手垢のついたトリックばかりだったし。歴史小説としても、多分それほど完成度は高くないのではないでしょうか。
エピローグ2は吹き出しました。これが書きたかったんだね。

加賀美雅之「鉄路に消えた断頭吏」
フェル博士とバンコランの華麗なる競演、対するは三重密室。
ファン垂涎の豪華キャスト、――なんだろうなあ。バンコランを知らないから、他人事なんだけど……。
ハウダニットのお手本のような、詰めのしっかりとした解決でした。
ただし、凶器の問題はちょっと、ベタ過ぎたかと。

小林泰三「ロイス殺し」
一人の悪党を殺すまでの道程をモノローグで語り通す。
ハウダニットも勿論扱っていますが、この作品の核になっているのはじわじわと伝わってくる語り部の狂気。――うーん、ミステリィ要素捨ててホラー一本でいった方が良かったんじゃなかろうか。作者は色々、思うところがあるみたいだけれど……。
落とし方が絶妙。短編としての完成度はとても高い。

鳥飼否宇「幽霊トンネルの怪」
D三課のマーチ大佐のパロディ。――らしいが、知らん。
コメディ風のタッチですが、提示される謎は魅力的。トンネルの中、消えては現れる黒塗りのベンツ。これぞ不可能犯罪。
でも……、その謎に興奮できたのは解答編に入るまで。
いくらなんでもこの解決は酷過ぎる。もっと周りのレヴェル読んで!

柄刀一「ジョン・D・カーの最終定理」
メタかつアンチ。アプローチの仕方は芦辺に似ていると思います。
出し惜しみなく次々と繰り出される不可能犯罪。ミステリィを愛する青年たちの輝かしい世界とその破滅。読了後の後味の悪さ。
このアンソロジィの中で抜群に上手いです。柄刀一、要チェック。

二階堂黎人「亡霊館の殺人」
カーといわれてこの人が出てこないはずはありませんよね。
かのH・Mが、甥っ子の巻き込まれた密室目張り殺人に挑む。王道。
いかにも二階堂らしい作品、という印象。
あまりひねりがないトリックだったので、ほぼ完答できました。

全体を通すと、カーとか関係なくても、ハズレはあまりなく、一冊で何人もの作風を楽しめるお得なアンソロジィだったと思います。
ハウダニットに目新しい要素がなかったような気がするのは、やはりもう出尽くしたからか。
2007.05.26 Sat
 竹林を背後に、闇の中ちらりちらりと、白い欠片が降っていた。
 一片が私の頬に落ちてきて、じわりと解けた。――雪か。
 やはり緑に声を掛けてコートを貸してもらったのは正解だった。思いの外、山奥の夜は冷える。
 雪はまだ降り始めたばかりで、足元の土を覆ってはいない。だがかなり勢いよく降って来ているように見える。この分では積もるのではないか。
 傘を持っていない。革靴やスーツ、何よりも借り物のコートを濡らすわけにはいかなかった。傘を取りに戻ってもいいが、このまま行ってもどうせ大した距離ではない。早足で歩く。
 私は今、母屋の裏口から出て別棟へと向かう、三十メートル程の道の上にいた。
 別棟は門のある屋敷の正面から見ると、母屋の裏に位置している。勝春の書斎と寝室があるのだ。緑や梢は母屋で寝起きしているから、その別棟は彼だけのプライヴェートな空間となっており、収集された能面などもそこに保管してあるという。勝春はその部屋に一人でいることを好み、食事のときと客をもてなすときのみ、母屋に出てくるのだそうだ。
 ――その勝春が、私と二人きりで話したいのだ、という。
 宴を終えた後、今夜は泊まっていきなさい、と有無を言わせぬ口調で私は勝春に命じられた。緑に部屋まで案内され、やっと一人になれたと思ったが、一心地つく間もなくまた緑が呼びに来たのだった。
 二人きりで、か。
 勝春がどのような思惑を抱いているのか、想像もつかなかった。
 伝統文化保存のためのボランティア団体に寄付する、という遺言のことが頭から離れない。禍根を残さないため、というのは本気だろうか? 恨まれるのは自分一人で良いと、そういうことなのか?
 一切の財産を身内に残さない、ということは、緑と梢はこの屋敷を追い出されることになる。梢は新聞社で働いているし、緑だってエッセイが好評だったというから、食うに困るということはないだろうが、それにしたって……。
 考えているうちに、扉の前に着いてしまっていた。
 母屋と変わらない木造日本家屋。こちらは一階建てで規模も小さいが。
 インタフォンを鳴らす。チャイム音の後に、勝春の声が応じた。
「入りなさい。正面の部屋だ」
 静かだが威圧的な声だった。私は一瞬緊張を感じたが、意識して力を抜く。
 失礼します、と声を掛けて、扉を開けた。
 男一人、好き勝手にやっているにしては小奇麗な印象である。廊下にも物は殆ど置かれていない。緑が掃除をしに来ているのかも知れないが、勝春自身も物を散らかしておけない人間なのだろう。
 正面のドアをノックすると、入れ、と返ってきた。
 迎え入れるのが礼儀だと思うが、大人しく従う。ノブを引いて、部屋の中へ。
 照明はかなり絞られていて、部屋は薄暗い。壁際に花の飾られていない花瓶が置かれているが、その模様すらよく見えないくらいである。大きめの書き物机と本棚があるから、ここが書斎なのだろう。
 そして勝春は――、革張りの肘掛け椅子に体重を預けて、こちらに背を向けていた。
 椅子は他には置かれていない。仕方なく、私は立ったまま声を掛けた。
「参りました。お話になりたいことがあるとの事ですが」
 勝春は振り返らないまま、しばらく間があった。
 嫌なプレッシャを感じる。私は焦燥に駆られて、再び口を開きかけた。
「――私が憎いか」
 しかし遮るように、勝春が問うた。
 憎いか、――だと?
 憎くないはずがない。だがそれを言ったところで、何が変わるというのだ。
「いえ」
 私は短く答える。けれど本意ではないと伝わっただろう。
 勝春は気圧されたように続けた。
「仕方なかろう。私とて自分の家庭が大事だった」
 家庭が大事だった!
 まさか言い訳になると思っているわけではないだろう?
 憎んでなどいませんと、許しを与えて欲しいのか。
 頭に血が上る。甘えるな。
 私がどれだけの思いでここに立っているか、わかっているのか。
 背中に思い切り罵声をぶつけてやりたかった。人殺し、母を返せ、と。
「後悔なぞしていない」
 私の気持ちを知ってか知らずか、平気で断言する勝春に、私は呆れてしまう。
 じゃあ何故私を呼んだのか。
 遺産を全てどこぞのボランティア団体に寄付するというのなら、私をわざわざこんな山奥に呼びつけることに意味はない。どころか、私に父親だと名乗り出る必要すら、なかったのだ。
「何故今更、と思っておるな」
 見透かしたように勝春は言った。
「ええ。理由があるなら教えて下さい」
「――けじめだよ。何も言わずに死ねばお互い悔いが残ろう」
 ――それだけか。
 私はこの老人の自己満足に付き合わされたというわけだ。
 反省の言葉など、聴けると思ってはいなかったけれど……、何かを期待していたのは事実だった。甘いのは、私だったのだろう。
「お話がそれだけでしたら、私はこれで」
 踵を返す。ドアノブに手を掛けたそのとき。
「待て」
 ――ぞくり、と背筋に嫌なものが走った。
 私の背中に投げられたその声は、今までの淡々とした語りから一転して、不吉な響きで迫った。私は本能的に、後ろの闇を振り返る。
「お前は恵美に抱かれたそうだな」
2007.05.30 Wed
あらすじを書くと、私の力量では一発でネタバレになるのでやめます。

ジョン・ディクスン・カーフェア実施中! ということで。

密室ではないけれど、スリリングな展開は心躍りますね。
シーンの変わり目にどきりとする一行を挿入して、読者のページを捲る手を止めさせない。こういう手法は積極的に盗まねば。
ヒロインが巻き込まれる悲劇的なシチュエーションも目を引きます(ウィリアム・ラッセル候事件をヒントにしたらしいけれど、それでも素晴らしい着想です)。
加えて人物の描写の上手さ。
健全な家族が、事件と疑惑に直面することで偽善的な側面を顕にするところとか、人を信じやすい真っ直ぐな女が、影のある危険な男に惹かれてしまうところとか……。
一人一人がドラマに深みを与えていて、カーがストーリィ・テラとしてどれだけの高みにいたか、思い知らされました。

クリスティが絶賛したというトリックはというと。
意外性もあって、完成度も高い、けれどインパクトはそこまで大きくないような気がします。どうだろう、例えば今国内のミステリィ作家がこのタイプのトリックで一作長編を書いたとして、どのくらい評価されるかなあ? 結局は、作者の力量でしょうけど……。

嗅ぎ煙草入れの使い方については。
――なんだか見覚えがあるんですが……。ひょっとしてこの作品は既読だったのか(トリックもストーリィも記憶にないのだけど)。それとも、某有名推理ADVゲームの、あの話に酷似しているからだろうか……。
そのせいか、特に感銘は受けず。

この小説では特徴的な探偵法が用いられます。
精神分析によって犯人や証人の心理を読み、事件を再構成し、動機を見つけ出すというもの。勿論通常の論理的思考に加えて、ということですけれど。
日本の探偵では、小栗虫太郎の法水倫太郎、島田荘司の御手洗潔なんかの探偵法がこれに近いか。
弱点はどうしてもペダントリックになりがちで、読者に距離感を感じさせてしまうという点でしょう。だから最近はあんまり好まれませんね。私も嫌いではないけれど、やっぱり森博嗣の犀川創平みたく、ロジック一本で推理する探偵の方がなんとなく好きです。

さて。
本作の結末に対して別の解釈をした短編を書いてしまいました。
ネタバレ含みます。――てか、ネタバレしか含んでません。
なので、読んでない人には何のことやらさっぱりわからない話になっている、と思います。不親切な話ですみません。まあ、大したことないただの二次創作ですので……。
原作読んだ人で、心の広い方だけどうぞ。
「皇帝の嗅ぎ煙草入れ The other answer」
2007.05.30 Wed
 ――イヴ・ニールがモーリス卿殺害の容疑で起訴されているという。
 ありえない話だった。とんでもない戯言だ。警察はどこまで無能なのだ。
 何故ならモーリス卿が殺された丁度そのとき、イヴは僕と一緒にいたのだから。
 証拠が揃っているだと! 忌々しい石頭どもめ!
 僕は悪態をつきながら階段を上る。ヴォトゥル検事の事務室はこの市役所の最上階だ。
 最上階だと。全く、馬鹿と煙は高いところが好きだとはよく言ったものだ。
 僕はふらつきながら一歩ずつ足を踏み出す。くそ、やはり頭を打ったからか?
 頭の禿のことを思い出し、僕はずれかけた帽子を被り直した。
 階段の手すりをつかむ腕は、女のように細い。鏡を見ていないからわからないが、きっと顔もやつれてしまっているだろう(ああ、こんな顔でイヴに会いに行くだなんて!)。九日も眠っていただなんて、我ながら信じられない。
 もっと早く目を覚ましていたなら……、いや、イヴが僕を突き落としさえしなかったら!
 僕は殺人の瞬間を目にしている。
 茶色の手袋――振り上げられた火掻き棒――そして、トビイ・ロウズの血走った目。
 そう。犯人はイヴの婚約者だ。お上品ぶった愚鈍な男。
 あいつは何度も何度も父親の頭に火掻き棒を振り下ろした。どんな恨みがあったのか知らないが、驚くべき残忍さだった。結局イヴは僕と正反対の男を捕まえたつもりが、実は僕の上を行くサディストに捕まりかけていたのだ。
 それにしても、よりによってイヴに自分の罪を押し付けるなど! ――そうではないか。あの男にそれほど知恵が回るとも思えない。ただ警察が頓珍漢な事に彼の婚約者を捕まえたとき、臆病者のトビイは口を噤んでいたというだけなのだろう。
 憤りのあまり頭に血が上って、目眩がした。
 くそが! 僕のイヴを監房にぶちこむなんて!
 あの女は弱い。刑事や検事のねちっこい尋問に耐えかねて、やってもいない殺人を自供しかねない。急がなくては。僕が救うのだ。
 ――僕は監房の暗さを知っている。冷たい床と壁。圧倒的な不自由。自分よりも遥かに劣ったものに虐げられる屈辱。イヴの脆い精神に耐えることができるだろうか?
 気高い彼女があんな目に合わされるなんて、僕は許せない。
 僕は必死に上ってゆく。
 警察がイヴを犯人だと信じ込んでいる根拠はどんなものなのだろう。
 大方、僕の鼻血を手と服にべっとりとつけた彼女を、誰かが見ていたのか。あり得る話だ。やはりあの事故が……、それとも僕が彼女の部屋に行ったことがこの馬鹿馬鹿しい悲劇の引き金になっているのだろうか?
 一瞬よろめき、足を滑らせそうになる。危なかった。また僕はくだらない事故のせいで重要な局面を逃すところだった。気をつけていかねば。
 階上から男の声が聞こえてくる。キンロスとか言う博士の声か。見上げると、あと少しで最上階だった。
「――では、五十フィートも離れたところから見たと称する彼女は、どうしてこれが嗅ぎ煙草入れと知っていたか?」
 僕ははっとして、足を止めた。
 そうか! 僕があの晩、老人が見ていたものを嗅ぎ煙草入れだと言ったから?
 イヴはそれをそのまま証言して……、
 僕のせいなのか、またしても!
 僕はたまたまドンジョン・ホテルで、ある美術商が自慢げに話しているのを聞いただけだ。ナポレオン由来の嗅ぎ煙草入れを手に入れた、それは時計を模した形をしているのだと。そしてそのひどく貴重な宝物を、モーリス・ロウズという骨董収集家に売りつけるつもりだと……。
 僕はロウズ家の人間の情報は何でも仕入れておこうと、耳を大きくしていたのだ。だから記憶に残っていて、モーリス卿が虫眼鏡で覗いていたきらきらする時計のような品を見たとき、すぐさま嗅ぎ煙草入れのようなもの、などと口走ってしまったのだ。
「全ての回答はこれにかかっている。つまり、これと暗示の力です」
 キンロス博士の声が続けた。
「暗示の力ですって?」
 知らない女の金切り声。
 そうだ、暗示だ。僕の言葉を聞いただけで、彼女も老人の姿を見たと錯覚し……。
「この殺人の犯人は、非常に巧妙だったんです。おそらく周到に計画されたもので、イヴ・ニールは第二の被害者として、モーリス・ロウズ殺害犯人の確固たるアリバイを作る道具にされていたのです。しかも犯人は、際どいところまで、上手くやっていたのです」
 ――何だと。
 僕は扉の前で立ち竦んだ。
 この男、まさか僕を、
「――誰が犯人だか、知りたくありませんか?」
 芝居がかった博士の声とともに、ドアは素早く開かれた。
 部屋の中にいるロウズ家の連中は、驚きと戸惑いの表情で僕に視線を向けた。
 トビイは呆けたように口を開けている。馬鹿な、犯人はこの男だぞ!
 ドアノブを引いた状態で立っている博士の顔を見上げる。
 何だ……、その勝ち誇ったような目は。
 僕はやっていない! お前らに見下されるような真似は……!
「確かにこの男は、自我偏執狂です。ここへ来るなと皆で止めたのですが、ここに来て、自分自身のために証言するといって聞かなかったのです。さあ、入りたまえ。どうぞ」
 そして彼女の顔をやっと探し出したとき、青白い探照灯のような光が、僕の目を射た。
 イヴ! 君はどんな風に僕を見ている?
 ぐらり、と体が傾いだ。
 光が……何て眩しいんだ。
 僕は急速に意識を失っていく。
 光の海の中へ、僕は――。


◆ ◆ ◆

 私は読んでいた犯罪心理学論文集をぱたりと閉じた。
 まもなくロンドンに着くとのアナウンスが入ったからだ。飛行機で祖国に帰る途上である。
 隣で眠っているイヴ・ニールを起こそうとして、やめた。つかの間の休息なのだ。今までずっとごたごたに巻き込まれてきたのだし、ロンドンでは新しい生活に慣れるまで緊張していなくてはいけないだろう。
 私は、私と彼女がやっと勝ち取った幸福な時間を、微笑ましい気持ちで享受する。
 ――勝ち取った。そう、私は勝ち取ったのだ。
 イヴ・ニールはとても女性らしい女性だ。美しく、純粋で、気高く、しかししたたか。そして男を愛さずに、一人きりで生きることなど考えられない女性。それが私の隣で、瞳を閉じて眠っている。
 トビイ・ロウズは問題ではなかった。彼はそもそも彼女に見合う器の持ち主ではなかったのだ。肝心のときに彼女を庇うこともしなかったし、どころか自分の浮気を棚に上げて彼女を責め立てたのだ。ニール夫人の彼への想いはあの夜にいっぺんに冷めてしまった。
 しかし、ネッド・アトウッドは。
 あの悪魔のような男の残した影は、今でも彼女の心を押さえつけている。
 アトウッドはその美貌と知性、攻撃性と時折見せる優しさで女を虜にしてしまう。ましてイヴ・ニールのような、人を信じやすく暗示にかかりやすい女はなおさらだ。だから……、
 だから、私はアトウッドを殺人者に仕立て上げた。
 トビイ・ロウズとネッド・アトウッド、どちらが犯人なのか、私は確信を持って言うことが出来ない。どちらでも犯行を行い得るし、論理的にも整合性は保てる。トビイを犯人だと考えた場合、ニール夫人の帯に寝間着に付いた瑪瑙の欠片だけは別の説明が必要となるが、それは例えばトビイとイヴェットが共犯だったというような場合が考えられるだろう(大した事をしていないはずのイヴェットが今でも口を割らない理由はここにあるのかも知れない)。
 だが、もし私がトビイを犯人だと名指ししたらどうなるだろう?
 ネッド・アトウッドは喜んでニール夫人を攫って行くだろう。彼女はアトウッドを突き落としたことの後悔も手伝って、彼にしぶしぶながら(しかし心の底から惹かれながら)付き従っていくのではないか。
 それでは駄目だった。ネッド・アトウッドの評価を地に落とす必要があった。
 殺人を犯し、最愛の彼女を利用してまで自分の立場を守ろうとした卑劣漢……、そうイヴ・ニールに信じさせるために、私はあの日検事の事務室で、劇的な演出効果を期待してネッド・アトウッドこそが殺人者だと宣言したのだった。
 あの瞬間、アトウッドの蒼白な顔を光が照らして、彼はゆっくりと崩れ落ちた。
 しかし何ということだろう! 私は今でも背筋が寒くなる。私はあれほど美しい死に顔は見たことがない。光を受けて一層はっきりとした彫りの深さ、輝く長い睫、歪んだ薄い唇。
 私の大芝居は、ネッド・アトウッドの魔的な美しさを引き出す結果となった。イヴ・ニールの心にはアトウッドの死に顔が刻み込まれ、二度と消えることはないだろう。
 ――しかし。
 私は小さく寝息を立てているニール夫人を黙って見つめる。
 彼女の隣に今いるのは私なのだ。そしてこれからも。
 死者との思い出は美化されるが、しかし思い出はやがて風化する。
 彼は既に過去の男だ。彼女はまた新しくやり直せる。
 窓の外に飛行場が見えてきた。彼女を起こさねば。
 彼女の肩に手を置こうとして……私は躊躇し、結局声を掛けるだけにした。
「ロンドンだよ。起きなさい」
 彼女はゆるりと瞼を開ける。すっかり寝ぼけた様子だった。
「――おはよう、あなた。もう朝なのね」

――fade out.
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