ご案内お知らせ短編連載「マスカレイド」書評動画
自作小説(短編中心)と書評(というか感想文)。 ジャンルはミステリィが主体です。
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2006.11.10 Fri
 どんないろがすき?
 あか。
 あかいいろがすき。
 いちばんさいしょになくなるよ。
 あかいくれよん。

◆ ◆ ◆

 ぬち、ぬち、ぬち。
 薄暗い倉庫の中で、男がキャンパスにクレヨンを塗りつけている。
 天井近くに幾つかつけられた窓から入ってくる月の光だけが、男の手元を照らしている。ぼんやりと白い光が通る暗がりには埃が浮かび上がっており、この倉庫に人の出入りがしばらくなかったことを思わせる。

 ぬち、ぬち、ぬち。
 その不快な音は、しかしいつまでもリズミカルに、誰もいない空間に響く。
 男は手を休めない。規則正しく、熱心に、執拗に腕を動かし続ける。
 しゃがみこんで、指先に太いクレヨンをぎゅっと握り締めて。
 キャンパスに顔を付けんばかりにして。
 額から溢れ出る脂汗を拭おうともせず。

 ぬち、ぬち、ぬち。
 ぬちり。

 一層粘着質な音を立てて、男の指の中でクレヨンが潰れた。
 男ははっとして、一瞬手を休める。そして顔を上げてクレヨンの残骸をじっと見詰めた。
 それはあかいクレヨン。
 あかい、あかいクレヨン。
 血よりも赤く、
 肉よりも粘つく。
 大好きなクレヨン。
 特に手触りが好きだ。ねっとりと、絡みつくような。そして嬲るように塗りつぶすのが好きだ。だから男は手袋もせず、ラベルを剥がしたクレヨンを直接握っていたのだった。そのため手はべっとりと真っ赤な油で汚れている。
 もともとは白かった、このキャンパス。丁度ここまでで片面、塗りつぶし終わったところである。あかいクレヨンで。血よりも赤く、肉よりも粘つくように。塗り残しはないだろうか。気になって男は再びキャンパスに顔を近づけ、舐めるように隅々を確かめる。そうしながら男は、ここまでの過程を反芻し始めた。
 一番初めに塗ったのは何処だったか。――そう、ここだ。男は真っ赤なキャンパスの柔らかな膨らみに軽く手を添える。ねち。その感触が気に入った男は、何度かその膨らみを揉む。いい出来だ。そこからゆっくりと、念入りに真っ赤なキャンパスをなぞっていく。いい。いいぞ。熱のこもった様子で呟く。その掠れた声を聞く者はいない。
 そして男はキャンパスの両脚を大きく開き、その間の茂みを覗き込んだ。ここは大変だった。何せ茂みの中に手を突っ込み動かそうとすると気味の悪い真っ黒な剛毛が指先に絡まってくるのである。何度か手を入れてうまくいかず、剃ってやろうと考えて、かみそりのような道具を持ってきていないことに気がついた。ここに持ち込んだのはロープと新品のクレヨンだけだ。仕方がないので両手で掻き分けるようにしながら必死で塗りつぶした。
 しかしその甲斐あって、中のひだは素晴らしい塗り心地だった。ぐりぐりと押し込むようにして粘膜にクレヨンを塗りこむ、あのときの恍惚を、男は思い出す。知らず知らずのうちに顔を上げて、しばし呆けた。目を虚ろに、口を半開きにして。
 涎が口元から溢れそうになったとき、自失していた男はふと現実に立ち返る。そうだ、まだ終わっていないのだ。まだ片面、塗りつぶさなくてはいけない。そう、作品は完成させなければ、世に出すことはできないのだから。
 勿体無いので、指にへばりつくようにして残っていた赤い油脂を、キャンパスの隅に塗りつける。べちり、べちり。そしてクレヨンの箱を開けて、中から一本新しいクレヨンを取り出した。ちゃんと用意しておいたのだ。大好きな色のクレヨンを、もう一本。
 だって好きな色のクレヨンは、一番最初になくなってしまうのだから。
 そして男は、もう一面を塗りつぶすべくキャンパスを裏返した。
 ――べたん。

◆ ◆ ◆

 奇妙な絵だった。
 何の変哲もない公園の風景である。ブランコがあって、シーソーがあって砂場があって、滑り台がある。人物の姿はない。構図は至って自然だ。何が奇妙かというと、それは色である。毒々しい紫に彩られたブランコ、気味の悪い濁った緑のシーソー、青一色の砂場、そして燃え立つように赤い滑り台。それらが輪郭を、淡い黄土色の背景に滲ませるようにしてぼんやりと配置されているのである。見るものに強烈な違和感を与え、しかし同時に鮮烈な印象を残す異常な色彩感覚。
 タイトルに目をやる。『少年』。
「すごいな……」
 水木は絵を見上げながら立ち尽くして、そんな間抜けな感想を述べた。
「これが日本における前衛絵画の巨匠、杉浦勇の代表作ですよ。どうです、気に入りました?」
「いや、何か気に入ったとか、そういうレヴェルじゃなくて……なんかすごい絵だ」
 これではまるで子供のコメントである。しかし言葉が他に出てこなかった。
「そうでしょうそうでしょう。警視に楽しんでもらえるような場所、僕は必死に探したんですからね。これでつまらないから帰るとか云われたらどうしようかと思いましたよ」
 後輩の宅間は嬉しそうに水木の肩を叩く。「もう警視じゃない」と水木はうんざりしたように答えるが、宅間は全然聞いていないようだった。
 水木は一昨年の春から去年の冬までの約二年間、警視庁捜査一課の警視だった。
 まだ水木は三十にもなっていない若造だから、当然これだけのポジションに就くには非常な功績と、そして強力なコネクションが必要であった。水木が偶然それらの条件を一度にクリアすることになったのは、三年前の連続誘拐事件を解決したときのことである。犯人は三人の女子高生を誘拐していたのだが、そのうち二人が法務大臣の娘と警視庁長官の娘だったのである。被害者全員を無事保護することに成功した水木は、あっという間に警視まで上り詰めることになった。
 そんな奇跡のような幸運に恵まれて手に入れた地位をあっさり水木が放棄した理由は、警察の仕事は忙しすぎるから、というふざけたものだった。「だって土日が休みじゃないなんてありえません」と、辞表をつき返そうとした警視庁長官に云い放った水木の台詞は、後々まで捜査一課の語り草となった。
 宅間は、水木の警視時代の部下である。ということは勿論捜査一課の刑事である。現在の階級は警部。水木の部下といっても、異例の昇進をした水木の方が年は三つ下である。可もなく不可もなく、特に突出した能力はないもののまじめに捜査に取り組む人物だった、と水木は記憶している。
 そんな宅間が、週に一度就職活動をするだけの暇人となった水木を、いろいろな理由をつけて誘い出すようになったのはここ最近のことである。「映画を観に行きましょう」だの「いい居酒屋を見つけたんですよ」だのと連絡してくる様子はまるで恋人をデートに誘うかのごとくである。無論男同士でそんな関係になったわけでもなく、宅間の目的は実は、自分の担当する事件のうち捜査が難航しそうなものについて、水木に助言を乞おうということなのだから、なんとも殺伐とした話だった。
 勿論誘われるたびに水木は断る。もう水木は警察の関係者ではなくただの一般人なのだから、事件の詳細な情報を手にする権利はないし、宅間だって一介の民間人に捜査の協力を仰いだとなれば責任問題だろう。特に今回、この「杉浦勇個展『パレット』」に行きましょうと誘われたときは断固拒否した。何故なら今は八月の半ばで、とてもではないがクーラの効いた部屋から這い出て人ごみの中でもみくちゃにされる気分ではなかったからである。
 それでも結局宅間に押し切られて出てきてしまうのは、水木が余りに退屈をもてあましているからだ。警察にいるときは忙しかったが、少なくとも退屈はしなかった。つまらない業務ばかりだったけれど、家でぐったりと寝転がってTVのワイドショー番組を眺めているほうがもっとつまらない。
 今日は出てきて正解だったかな、と水木は少し思った。この画家、杉浦勇は前衛芸術家であるためにコアなファンしかついていないのだ。しかも現在の時間は夕方四時で、閉館まで一時間しかない。そのため人でごった返している巨大デパートの中でも、この個展が開かれているフロアには客はほとんどいなかった。おかげで割と落ち着いた雰囲気だ。それにこの絵の数々。どれも先ほどの『少年』と同様、色彩の混濁の中に訴えかけるものがある。水木は芸術的な感性なんてものには程遠い人間で、特に前衛芸術なんていうのは頭のねじの緩んだやつらの所業だと、今までずっと思っていたのだが。
「この絵を描いたのは……、ええと、杉浦勇だっけか、どんな人なんだ?」
 水木は何となく訊いてみる。
「実は絵を描いたのは二代目杉浦勇なんですよ。父親が初代です。父親も前衛芸術の先駆者なんですが、この人は絵画よりも彫刻のような立体的な作品を多くやった人みたいです。息子はこの父の影響をかなり色濃く受けたそうで、『父の教育がなかったら今の私の絵はありませんでした』とどこかのインタヴューで答えてました。最近、その父親が亡くなって。その追悼ということで、今回の個展が開かれたそうですよ」
 宅間の回答は水木が予想したよりもだいぶ詳しかった。宅間は何をするにもあらかじめ色々調べてから行動する。刑事の鑑のような男である。きっと今回もネットで調べたりパンフレットを入手したり画集を見たりして、かつての上司の前で失態を晒さないように予習して来たに違いないのだ。
 ふうん、と水木が興味なく応じると、宅間は相変わらずだなあと苦笑いした。
 水木は刑事時代から物事の背景に重きを置かない男だった。犯人の動機とか、凶器の入手ルートとか、被害者の人間関係とか。それよりも、死体がこの向きで倒れているとしたらどちらから殴られたと考えられるか、凶器は何か、指紋が残っているか、といった事件そのものの状況にばかり目を向ける傾向があった。
 二人はゆっくりと絵の間を進む。調和からは程遠い鮮やかな色たちの主張に囲まれていると、なんだか眩暈を起こしてしまいそうだった。
「――で、本題なんですが」
 フロアの端のほう、順路から僅かに外れたところに掛けられていた絵の前に来たとき、宅間は小声で口を切った。周りに人がいなくなる場所を選んだのである。水木は絵のタイトルをちらりと見る。『糸杉』。なるほど、ゴッホの『糸杉』へのオマージュであろう。真っ黒な糸杉を中心にすえて、その周囲を極彩色の渦が彩っている。
「先月の猟奇殺人、知ってます? 倉庫内で女が首を絞められて死んでいた」
「あー、ワイドショーで見たな。全裸死体だったんだろ、確か。若いOLかなんかで」
「その事件です。他に何か現場の状況で知ってることはありますか?」
「いや、特にないな。マスコミにはあんまり情報回さなかったんだろ?」
「ええ。かなり派手でしてね、死体の装飾が。模倣犯が出る可能性を考えて」
「装飾?」
 絵をぼんやり眺めていた水木はその言葉に反応して、宅間を振り返った。
「そうです。死体の体幹部が、腹側と背中側、それぞれ赤と緑で塗り分けられていました。それから両手、これは手のひらも手の甲も赤ですね。後は手付かずです」
 水木は一瞬息を詰める。そして想像する。
 全裸の女が。赤と緑で。
 刑事として幾体もの死体を見てきた水木は、だからリアルに想像できる。絞殺なら苦しんだはずだ。歪んだ女の顔。その首から下は赤と緑に滑稽に色分けされた裸。一瞬の吐き気。慣れている。こらえる。深呼吸。
「画材は? 油絵の具か」
「いえ、クレヨンです」
「――クレヨン?」
 クレヨン。あのぎとぎとしたロウの塊。塗りつける犯人の行為が水木の脳裏に浮かぶ。
 背筋が凍るような光景だった。
「指紋は出たのか」
「そこら中からべたべた出ましたよ。殆ど全部被害者の指紋じゃありません。特に被害者の死体や衣服などについていた指紋は同一人物のもので、おそらく犯人のものだと思われます」
「その倉庫は? クレヨン工場なのか、もしかして」
「まさか」
 話しながら二人の男はまた進み始めた。
 どうやら最後の客になったらしかった。誰もいないフロアを歩く。
「倉庫の電気はつけられた形跡はあったか?」
「いえ、なかったです。ライターも、ろうそくの跡も、マッチも残っていませんでしたから、多分外からの光だけを頼りに作業したんじゃないでしょうか」
「はあん。体幹部といったが、具体的には何処を塗られていた?」
「そのままですよ。体幹部隅から隅まで」
「――性器もか?」
「そう。中も手が届く範囲は塗り残しなく」
 水木はそうか、と答えると軽く目を瞑る。
「――なんつうか、すごい事件だな……って、絵のときと同じ感想か」
「そう、この個展の雰囲気と似てるでしょう、その装飾が」
「まさかそんな理由で選んだのか……悪趣味だな」
「刑事ですから」
 にこりともせずに宅間は言った。
 二人とも少し押し黙った。
 何も言わずに次の作品に向かう。
 石膏でできた魚だった。鱗は一枚一枚色が塗られている。赤、青、黄色の三原色に緑を加えた四色。塗り残しも何枚かあるようで、それらは淡い真珠色に光っている。歪に身をくねらせた魚の像は、他の展示物からも浮いていた。水木はその像に見入る。屈みこむようにして熱心に覗き込む。
 周りの空間を歪ませるような、そんな強い力を持った作品だった。
「あ、それは初代杉浦勇の作品ですね。でも画集の中には見覚えがないな……。幻の遺作ってことですかね」
 タイトルがないことを水木は確認する。
「随分熱心に見てますね」
「いや、初めて父親の作品が出てきたから、どんなのかと思って。次行こう」
 すっと水木は石膏像から離れて、すたすたと先に行ってしまう。宅間も後ろからついていった。
 二人は再び事件の話に戻ってくる。
「犯人が残していったものには何があった?」
「凶器のロープとクレヨンですね」
「クレヨンは赤と緑以外全色揃ってたのか?」
「ええ、というか、赤も一本残ってました。欠けていたのは緑だけです」
「――ん……? クレヨンは箱入りのやつだろ、てことは犯人は赤だけ別にもう一本用意したのか?」
「そういうことになりますね」
 変な話である。水木は首を軽く傾げてちょっとの間考え込んでいたが、すぐに次の話題に移った。
「――それで、犯人の目星はついてるのか」
「全く。とりあえず被害者の交友関係は洗いましたが、恨みを持つものどころか、指紋が一致するものすら現れません。それから犯行に使われたロープとクレヨンについて、現場周辺のコンビニやら書店やら画材店やら、色々回ってみましたが不審な人物は浮かび上がりませんね」
「おまえ自身の感じとしては? どんな人間が犯人だと思う」
「そうですね……、まあ、変質者だろう、というありきたりな意見しか持ち合わせていませんが」
 もうすぐ順路も終わりに近い。時間も四時半を回っている。
 二人が足を止めたのは、赤ん坊を抱いた若い女の絵だった。この展覧会の中で唯一真っ当な配色、しかもパステルカラーで描かれた絵である。柔らかな女の表情、安らかな赤子の寝顔が見事だった。他の絵画が激しく自己主張する中で、それでもこの絵は一層輝いて見える。タイトルは『わが家族』。
「変質者、か。精液は残っていたのか? 性器に裂傷は?」
「どちらもありませんでしたが、しかしやり方が変質的ですよ。どう考えても」
「そりゃそうだな。塗り残しがないってことは、よほど念入りに仕事をしたはずだ。凶器だってクレヨンだって初めから用意している、計画犯罪だ。なのに指紋は残す、死体は残す、遺留品は残す、だからな。殺人と、その後の死体装飾にのみ執着したってことだ」
「そう。そう僕も考えました」
「――じゃあ何で次の殺人が起こらない?」
「え?」
 意表をつかれて宅間は目を丸くした。
「普通この手の性的異常犯罪者は連続して事件を起こすだろ。一月もたっているんだ。少なくとも犯人は逮捕されることなど恐れていないはずだ。これだけの証拠を堂々と残していく犯人だぜ。じゃあ犯人は一回目の犯行で懲りてしまったのか? それもないだろう、だって塗り残しはなかった、最後までやり遂げたんだ。クレヨンで全身を塗りつぶすなんてどれだけの労力だと思う、一回で飽きるような根性では到底できる真似じゃない」
「いえ、途中でやめたのかもしれませんよ。首、両腕、両脚には色を塗っていません。まず体幹、両手、そのあと四肢だったのかもしれない」
「それでは順番が合わない」
 水木は宅間のほうに向き直る。
「へ?」
「腹側、両手、背側の順に塗ったはずだ」
「どうしてそう思います?」
「犯人は被害者の服を脱がせるとき、どうやって脱がしただろうな? うつ伏せか? まさか。仰向けに決まっている。お前が犯人だったらどうする? 仰向けに横たわっている死体の背中から色を塗り始めるのか?」
「僕だったら死体に色なんて塗りませんけど、今回の犯人なら、腹側から塗ったでしょうね……」
「そう。赤のクレヨンを握った犯人は腹側から色を塗り始めた。塗り終わったときに赤いクレヨンが少し残った、としよう。もう体の片面を塗りつぶしたんだ、そんなに量は残らなかっただろう。さて、今回の犯人は偏執狂だ。そこでどうしたか。両手にも塗りつけて、なくしてしまうことにしたわけだ」
「けど何故手なんです?」
「被害者はロープで首を絞めて殺された。首に抵抗の跡があっただろ」
「ありました」
「必死で被害者はロープを手でつかんだんだ。だから手のひらが擦れて赤くなっていた……、そこで犯人は折角だから完全に真っ赤にしてしまおうと思った。――というのは完全に空想だが、一応筋は通るよな? 他にも考えられる。赤いクレヨンで汚れた手で被害者の手に触ってしまって、その汚れが気になって上から塗りつぶしたのかもしれない。何にしても、少し残った赤いクレヨンを一旦置いて、緑で背中を塗ってから赤を持ち直したと考えるよりは自然だろ」
「まあ……、確かに。話を戻しますけど、それでもやっぱり犯人が、初めは全身を塗るつもりだったのが途中で飽きて両腕と両足を残したという可能性は否定できませんよね?」
「――ふん、まあな。しかし一回目で飽きたにしては、仕事にむらがなさ過ぎる」
「それはそうですが……」
「何故次の殺人が起きないか、その問題はひとまず棚上げにして……。ああ、そうだ、そういえば手の指先の爪はどうなってた。剥がされてなかったか?」
「そうですそうです、云い忘れました、全部剥がされてましたよ」
「そうだよな。塗り残しなく塗ろうと思ったら、これほどパラノイアックな犯人だ、爪と皮膚の間の隙間とか、気になるだろうから。爪は見つかったのか?」
「いいえ、犯人が持ち去ったようです」
「これもまたいかにも異常性格犯罪者のやることだな。被害者の体の一部を持ち帰り自分の功績の記念にする」
 そんな議論しているうちに、最後の絵の前に着いていた。
 絵に目が行った瞬間から、二人の視線は釘付けになってしまった。今まで何を話していたのか、その刹那に忘れてしまうほどの衝撃だった。
 画用紙に描かれた空に、浮かぶ太陽は緑一色、その下に滲むように赤い夕焼けが描かれている。力強いタッチ。大胆な構図だった。しかし二人を絶句させたのはその画材だった。――クレヨン、だったのだ。赤と緑の、クレヨンの絵。右下には汚いひらがなで「いちむ」と描かれている。これも赤いクレヨンだった。
 タイトルは『夕焼け』。添え書きに、「私が幼稚園のときに、生まれて初めて描いた絵です」と二代目杉浦勇がコメントしていた。
 二人は呆然とその場に立ち尽くしていたが、先に宅間が我に返った。
「ああ、びっくりした。あまりにもタイムリーな絵が出てくるから……。二代目杉浦勇は幼稚園時代からこんな独特の色彩感覚を身に着けていたんですね。あ、ほら、いさむの『さ』が『ち』になっちゃってますよ。小さいころってこういう書き間違え、よくやりましたよね……、警視、大丈夫ですか?」
 水木はまだショックから立ち直っていない様子で、左のこめかみに指先を当てた。
 そして。
「時間の問題だったんだな」
 と呻くように云った。
「何のことです?」
「あれも見間違いじゃなかった」
「どうしたんです、一体」
 宅間は不安に駆られて警視の目を覗き込んだ。
「その絵は違う。二代目杉浦勇の絵じゃない。だって初代が『勇』なんだろう、息子に自分と同じ名前をつけられるはずがないじゃないか、法律で決まっていただろう。この絵は……、」

「この絵もまた、初代杉浦勇の遺作なんだ……!」

 沈黙が続いた。
 宅間は今の水木の台詞が何を意味しているのか考えているようだった。
 一方の水木は自らがたどり着いた真相に打ちひしがれていたのだった。
 先に沈黙を破ったのは宅間だった。
「でも、この絵……、まるで子供の絵じゃないですか……?」
「幼児退行だ。アルツハイマーの症状のひとつ」
「え……、要するに、惚けてたと……? いやでも、初代が子供のころに描いた絵なのかも……」
「初代は享年幾つだったんだ」
「八十二……ですけど」
「そんな人がひらがなで名前を書き間違えているんだ、七十五年以上前だぞ、戦前だ」
 戦前にクレヨンで絵を描くなんてことがあり得たはずがないのなら。それなら……。
「アルツハイマー……」
「そして色盲だ」
「しきもう?」
「色覚異常。この場合は赤緑色覚異常だろうな。簡単に云えば赤と緑の区別がつけにくくなる」
「――赤と緑?」
「あの魚を覚えてるか? 初代杉浦勇の幻の遺作。あの魚の鱗は何色で塗られていた?」
「赤、青、黄、緑……」
「そうだ。これはおかしいだろ? 色の三原色だけならわかる。どうして緑なんだ。緑を入れるなら紫だって橙だって入れるべきだ。バランスが取れないだろ」
「でも、それだけでは……」
「そしてこの絵だ。こんなシンプルな配色なのに何で太陽が緑なんだ」
「そんなことを云ったら二代目の絵だって配色がめちゃくちゃだったじゃないですか」
「二代目の絵の配色は本当にめちゃくちゃなんだよ。この違いがわかるだろ、ただ赤と緑を混同している初代と、様々な色をばらばらに配置することで新たな視覚効果を狙う二代目だ。それと二代目はインタヴューでこう云ったんだったな、『父の教育がなかったら今の私の絵はありませんでした』と。二代目の絵は初代から受け継いでアレンジを加えたものなんだ。現にまともな配色の絵もあった」
「でも、確たる根拠は……」
「そうだ、証拠はない。お前たち刑事が大好きな証拠は。でも俺はもう刑事じゃないんだ、勝手な空想を述べさせてもらう。例の事件の話をしよう。犯人はどんな人物か。変質者だが、性行為には及んでいない。では性行為に興味がないのかというと、それは否だ。性器にクレヨンを突っ込んで嬲るというのは擬似性行為に他ならない。じゃあ何で性行為を行わなかった?」
「犯人が女性だったのかもしれませんよ」
 宅間は、水木が云わんとする真相に既に気がついていた。だが認めたくなかったのだ。
「トランス・ジェンダの願望がある女か。あり得るが、それは消去できない可能性に過ぎない。もっと遥かに有望な選択肢があるだろ。――インポテンツだ」
「……」
「犯人は何故わざわざ赤いクレヨンを一本だけ箱と別に持参したんだ? もともと犯人は赤一色で死体を塗りつぶす気だったんだ。犯人は赤いクレヨンが好きだった。大好きな赤いクレヨンだったから、二本持っていったんだ。じゃあ何故背中側は緑になってしまった? 犯人には同じ色に見えていたんだ、赤と緑が。普段なら何とか区別できたんだろうが、殺人の直後の死体装飾中で、犯人は興奮していたし、倉庫は明かりがほとんどなくて暗かったはずだ」
「……」
「そして最後の疑問点。何故次の殺人が起きないのか。最も簡単な答えはこれだ。犯人が死亡したから」
 この個展は、亡くなった初代杉浦勇の追悼のためのもので。
「殺人の後、快楽を覚えてしまった初代杉浦勇は、衝動に耐え切れなくなってこの絵を描いた。一応この前後関係を証明しておくと、殺人のときはロープを用意するという知能が残っていたが、この絵の時にはもう自分の名前すら書けなくなっている。アルツハイマーは進行性の疾患だから、殺人よりもこの絵の方が後だといえる」
 だから、時間の問題だった。殺すのが先か、死ぬのが先か。
 そして死神は、罪人を選んだ……、ということだった。
「どうだ、反論は」
「――筋は、通っています。でも全て空想です」
「その通りだ。後はお前の好きにするんだな」
 下唇を噛むようにしながら、宅間はうなだれていた。
 水木はそのまま展覧会場を足早に出て行く。
 振り返らなかった。足も止めなかった。
 振り返ったら、足を止めたら、云ってしまいそうだったからだ。
 自分の見た証拠の場所を。目の前にあった、物的証拠の存在を。
 生きているものに罪はない。悪いのは死んだ男だけだった。
 今更その罪を証明して、誰が得をするというのだろう。
 宅間はこの事件に関しては何もできないだろう。水木の推理を裏付けうるのは指紋だけだ。死んだ初代杉浦勇の指紋を手に入れようと思ったら家宅捜査しかない。家宅捜査には令状がいる。空想もどきの推理などでは許可は下りまい。
 水木は宅間の気づいていない、もう一つの証拠を見つけていた。
 エスカレータに乗った水木は、手すりに重心を預けながら目を瞑り。
 見間違いではなかったのだ、と呟いた。

 まだ答えるべき疑問は残っている。
 持ち去られた爪はどこにあるのだろう?

 ――石膏でできた魚だった。鱗は一枚一枚色が塗られている。赤、青、黄色の三原色に緑を加えた四色。塗り残しも何枚かあるようで、それらは淡い真珠色に光っている……。

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