ご案内お知らせ短編連載「マスカレイド」書評動画
自作小説(短編中心)と書評(というか感想文)。 ジャンルはミステリィが主体です。
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2007.05.30 Wed
 ――イヴ・ニールがモーリス卿殺害の容疑で起訴されているという。
 ありえない話だった。とんでもない戯言だ。警察はどこまで無能なのだ。
 何故ならモーリス卿が殺された丁度そのとき、イヴは僕と一緒にいたのだから。
 証拠が揃っているだと! 忌々しい石頭どもめ!
 僕は悪態をつきながら階段を上る。ヴォトゥル検事の事務室はこの市役所の最上階だ。
 最上階だと。全く、馬鹿と煙は高いところが好きだとはよく言ったものだ。
 僕はふらつきながら一歩ずつ足を踏み出す。くそ、やはり頭を打ったからか?
 頭の禿のことを思い出し、僕はずれかけた帽子を被り直した。
 階段の手すりをつかむ腕は、女のように細い。鏡を見ていないからわからないが、きっと顔もやつれてしまっているだろう(ああ、こんな顔でイヴに会いに行くだなんて!)。九日も眠っていただなんて、我ながら信じられない。
 もっと早く目を覚ましていたなら……、いや、イヴが僕を突き落としさえしなかったら!
 僕は殺人の瞬間を目にしている。
 茶色の手袋――振り上げられた火掻き棒――そして、トビイ・ロウズの血走った目。
 そう。犯人はイヴの婚約者だ。お上品ぶった愚鈍な男。
 あいつは何度も何度も父親の頭に火掻き棒を振り下ろした。どんな恨みがあったのか知らないが、驚くべき残忍さだった。結局イヴは僕と正反対の男を捕まえたつもりが、実は僕の上を行くサディストに捕まりかけていたのだ。
 それにしても、よりによってイヴに自分の罪を押し付けるなど! ――そうではないか。あの男にそれほど知恵が回るとも思えない。ただ警察が頓珍漢な事に彼の婚約者を捕まえたとき、臆病者のトビイは口を噤んでいたというだけなのだろう。
 憤りのあまり頭に血が上って、目眩がした。
 くそが! 僕のイヴを監房にぶちこむなんて!
 あの女は弱い。刑事や検事のねちっこい尋問に耐えかねて、やってもいない殺人を自供しかねない。急がなくては。僕が救うのだ。
 ――僕は監房の暗さを知っている。冷たい床と壁。圧倒的な不自由。自分よりも遥かに劣ったものに虐げられる屈辱。イヴの脆い精神に耐えることができるだろうか?
 気高い彼女があんな目に合わされるなんて、僕は許せない。
 僕は必死に上ってゆく。
 警察がイヴを犯人だと信じ込んでいる根拠はどんなものなのだろう。
 大方、僕の鼻血を手と服にべっとりとつけた彼女を、誰かが見ていたのか。あり得る話だ。やはりあの事故が……、それとも僕が彼女の部屋に行ったことがこの馬鹿馬鹿しい悲劇の引き金になっているのだろうか?
 一瞬よろめき、足を滑らせそうになる。危なかった。また僕はくだらない事故のせいで重要な局面を逃すところだった。気をつけていかねば。
 階上から男の声が聞こえてくる。キンロスとか言う博士の声か。見上げると、あと少しで最上階だった。
「――では、五十フィートも離れたところから見たと称する彼女は、どうしてこれが嗅ぎ煙草入れと知っていたか?」
 僕ははっとして、足を止めた。
 そうか! 僕があの晩、老人が見ていたものを嗅ぎ煙草入れだと言ったから?
 イヴはそれをそのまま証言して……、
 僕のせいなのか、またしても!
 僕はたまたまドンジョン・ホテルで、ある美術商が自慢げに話しているのを聞いただけだ。ナポレオン由来の嗅ぎ煙草入れを手に入れた、それは時計を模した形をしているのだと。そしてそのひどく貴重な宝物を、モーリス・ロウズという骨董収集家に売りつけるつもりだと……。
 僕はロウズ家の人間の情報は何でも仕入れておこうと、耳を大きくしていたのだ。だから記憶に残っていて、モーリス卿が虫眼鏡で覗いていたきらきらする時計のような品を見たとき、すぐさま嗅ぎ煙草入れのようなもの、などと口走ってしまったのだ。
「全ての回答はこれにかかっている。つまり、これと暗示の力です」
 キンロス博士の声が続けた。
「暗示の力ですって?」
 知らない女の金切り声。
 そうだ、暗示だ。僕の言葉を聞いただけで、彼女も老人の姿を見たと錯覚し……。
「この殺人の犯人は、非常に巧妙だったんです。おそらく周到に計画されたもので、イヴ・ニールは第二の被害者として、モーリス・ロウズ殺害犯人の確固たるアリバイを作る道具にされていたのです。しかも犯人は、際どいところまで、上手くやっていたのです」
 ――何だと。
 僕は扉の前で立ち竦んだ。
 この男、まさか僕を、
「――誰が犯人だか、知りたくありませんか?」
 芝居がかった博士の声とともに、ドアは素早く開かれた。
 部屋の中にいるロウズ家の連中は、驚きと戸惑いの表情で僕に視線を向けた。
 トビイは呆けたように口を開けている。馬鹿な、犯人はこの男だぞ!
 ドアノブを引いた状態で立っている博士の顔を見上げる。
 何だ……、その勝ち誇ったような目は。
 僕はやっていない! お前らに見下されるような真似は……!
「確かにこの男は、自我偏執狂です。ここへ来るなと皆で止めたのですが、ここに来て、自分自身のために証言するといって聞かなかったのです。さあ、入りたまえ。どうぞ」
 そして彼女の顔をやっと探し出したとき、青白い探照灯のような光が、僕の目を射た。
 イヴ! 君はどんな風に僕を見ている?
 ぐらり、と体が傾いだ。
 光が……何て眩しいんだ。
 僕は急速に意識を失っていく。
 光の海の中へ、僕は――。


◆ ◆ ◆

 私は読んでいた犯罪心理学論文集をぱたりと閉じた。
 まもなくロンドンに着くとのアナウンスが入ったからだ。飛行機で祖国に帰る途上である。
 隣で眠っているイヴ・ニールを起こそうとして、やめた。つかの間の休息なのだ。今までずっとごたごたに巻き込まれてきたのだし、ロンドンでは新しい生活に慣れるまで緊張していなくてはいけないだろう。
 私は、私と彼女がやっと勝ち取った幸福な時間を、微笑ましい気持ちで享受する。
 ――勝ち取った。そう、私は勝ち取ったのだ。
 イヴ・ニールはとても女性らしい女性だ。美しく、純粋で、気高く、しかししたたか。そして男を愛さずに、一人きりで生きることなど考えられない女性。それが私の隣で、瞳を閉じて眠っている。
 トビイ・ロウズは問題ではなかった。彼はそもそも彼女に見合う器の持ち主ではなかったのだ。肝心のときに彼女を庇うこともしなかったし、どころか自分の浮気を棚に上げて彼女を責め立てたのだ。ニール夫人の彼への想いはあの夜にいっぺんに冷めてしまった。
 しかし、ネッド・アトウッドは。
 あの悪魔のような男の残した影は、今でも彼女の心を押さえつけている。
 アトウッドはその美貌と知性、攻撃性と時折見せる優しさで女を虜にしてしまう。ましてイヴ・ニールのような、人を信じやすく暗示にかかりやすい女はなおさらだ。だから……、
 だから、私はアトウッドを殺人者に仕立て上げた。
 トビイ・ロウズとネッド・アトウッド、どちらが犯人なのか、私は確信を持って言うことが出来ない。どちらでも犯行を行い得るし、論理的にも整合性は保てる。トビイを犯人だと考えた場合、ニール夫人の帯に寝間着に付いた瑪瑙の欠片だけは別の説明が必要となるが、それは例えばトビイとイヴェットが共犯だったというような場合が考えられるだろう(大した事をしていないはずのイヴェットが今でも口を割らない理由はここにあるのかも知れない)。
 だが、もし私がトビイを犯人だと名指ししたらどうなるだろう?
 ネッド・アトウッドは喜んでニール夫人を攫って行くだろう。彼女はアトウッドを突き落としたことの後悔も手伝って、彼にしぶしぶながら(しかし心の底から惹かれながら)付き従っていくのではないか。
 それでは駄目だった。ネッド・アトウッドの評価を地に落とす必要があった。
 殺人を犯し、最愛の彼女を利用してまで自分の立場を守ろうとした卑劣漢……、そうイヴ・ニールに信じさせるために、私はあの日検事の事務室で、劇的な演出効果を期待してネッド・アトウッドこそが殺人者だと宣言したのだった。
 あの瞬間、アトウッドの蒼白な顔を光が照らして、彼はゆっくりと崩れ落ちた。
 しかし何ということだろう! 私は今でも背筋が寒くなる。私はあれほど美しい死に顔は見たことがない。光を受けて一層はっきりとした彫りの深さ、輝く長い睫、歪んだ薄い唇。
 私の大芝居は、ネッド・アトウッドの魔的な美しさを引き出す結果となった。イヴ・ニールの心にはアトウッドの死に顔が刻み込まれ、二度と消えることはないだろう。
 ――しかし。
 私は小さく寝息を立てているニール夫人を黙って見つめる。
 彼女の隣に今いるのは私なのだ。そしてこれからも。
 死者との思い出は美化されるが、しかし思い出はやがて風化する。
 彼は既に過去の男だ。彼女はまた新しくやり直せる。
 窓の外に飛行場が見えてきた。彼女を起こさねば。
 彼女の肩に手を置こうとして……私は躊躇し、結局声を掛けるだけにした。
「ロンドンだよ。起きなさい」
 彼女はゆるりと瞼を開ける。すっかり寝ぼけた様子だった。
「――おはよう、あなた。もう朝なのね」

――fade out.
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